新宿区立江戸川小学校

江戸川小の歴史散歩②

牛込の名の起こり

 「牛込」の名は平安末期の源平の合戦の頃から文書に登場する。
当時の地名は、「武蔵の国豊島郡牛込村」と呼ばれた。


 牛込村を領有していたのは、武蔵七党の1つ「秩父党」。頼朝の挙兵の3040年前にこの地に進出し、秩父重継は江戸を名乗り、初めは頼朝を攻め、後に味方し奥州征伐に参加している。(吾妻鏡)

 室町時代初期、牛込地域は江戸氏の支配下にあり、「武蔵の国荏原郡牛込郷」と言われていた。しばらく江戸氏が所領。
 室町時代の半ば、関東管領の上杉氏の宰相(大臣)の太田道灌が江戸(千代田区)に築城。それまで支配していた江戸氏は、小田原北条を頼り江戸を去った。その後、上杉氏は太田道灌を殺し、自ら江戸城に入城。
 上杉氏は、上野の国大胡(群馬県赤城村)から、馬の放牧の上手な大胡氏を呼び寄せ牛込の地に住まわせ放牧をさせた。
 上杉氏が北条に追われ越後に逃れると、大胡氏は牛込氏と名を代え、北条方に付き勢力を増した。袋町辺りに牛込城を構えた。
 しかし、北条が豊臣秀吉に敗れると、牛込城は取り壊された。

 その後、牛込氏は徳川家康につき、旗本として小日向天神町下に構え幕末まで仕えた。

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新宿区町名誌より