新宿区立江戸川小学校

江戸川小の歴史散歩⑤

新宿区にあるのになぜ江戸川小学校なのか①

 江戸川小学校を少し北に進むと神田川に出る。この神田川までが本学区であり川向こうは文京区となる。
 神田川は井の頭公園の池の湧水を水源とし、善福寺川や妙正寺川、小石川と合流してお茶の水に下り、更に秋葉原、浅草橋を経て隅田川(大川)に流れ出ている。
 この神田川は、南こうせつさんの大ヒット曲のおかげで名前だけは全国に知られている。が、川そのものについてはあまり知られていない。特にJR飯田橋駅付近から下流については知る人が少ない。
 毎年11月、品川沖から大川を上って神田川に入り、そこから飯田橋まで上り、更に三崎橋から日本橋川を下って再び日の出桟橋に戻る舟のツアーが催されている。本校から参加している7~8組の親子や教頭は神田川や日本橋川の川筋を容易に思い浮かべることができるであろう。しかし、私には地図上に描くことすら難しい。
さて、江戸川小学校の名前の由来を述べる前に、少し神田川の歴史について述べてみたい。
 神田川は東京湾に注ぐ荒川や隅田川と比べるとあまりにも小さな川であるが、江戸市民や明治の東京市民にとっては、玉川上水と同じく江戸や東京の飲み水を水道によって提供してくれた大自慢の川であったのだ。
 徳川家康の江戸入城の頃、神田川は平川と呼ばれていた。平川は、現在の飯田橋付近から九段そして神田橋を通り皇居外苑付近で日比谷の入り江の海に出ていた。
 当時、江戸城まで湾が入り込み海運には最高に恵まれていたが、多くの武士団を住まわせる土地が無かった。そのため家康は江戸入城と同時に武士や町人を住まわせるための敷地確保に迫られた。そこで、舟の航路の運河を掘りながら日比谷の入り江を埋め、武士や町人の住める敷地を確保した。そこが現在の皇居外苑、霞ヶ関、日比谷、JR浜松町辺りである。そこは江戸城に通う大名の屋敷に充てられた。更に、丸の内の台地を掘り割りその土砂で江戸湾埋めた。そうして、今の日本橋を造成した。その時できた掘り割りに平川を迂回させ、その辺りの平川を日本橋川とした。現在も飯田橋先の三崎橋付近から日本橋に下る川を日本橋川という。

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