新宿区立江戸川小学校

江戸川小の歴史散歩⑥

新宿区にあるのになぜ江戸川小学校なのか 

もう少し神田川の歴史について話を進めたい。
 日比谷の入り江や日本橋の埋め立てにより、武士や町人の住む場所が確保され、江戸の町はいよいよ賑やかになってきた。しかし、人が増えると困った問題が出てきた。それは飲み水の不足であった。江戸の町にも湧水が何カ所もあったが、その殆どを大名や寺社に押さえられてしまっていた。そのため、埋め立て地や低地に住む人々は井戸や川の水に頼らざるをえなかった。しかし、井戸水は塩辛く、川の水もかなりの上流にまで潮が満ちてくるためとても飲料水には向かなかったのである。
 江戸住民の飲み水への不満の声が日に日に大きくなるため家康は家臣の大久保藤五郎忠行に水道施設の着工を命じた。 大久保藤五郎は、池中に7ヶ所もの清泉を有し旱魃にも涸れることのない武蔵野最大の湧水地、井の頭池に目をつけ、そこから流れ出る平川の水を利用することにした。
 また、江戸湾の満潮時には海水が文京区江戸川橋付近まで入ってくるため、江戸川橋の上流辺りに堰をつくり、そこで海水の入水をせき止めることにした。その堰の名を大洗堰という。現在の文京区関口町にあり、関口の大滝と呼んだ。
 大洗堰は切石を積み重ねてつくられ、大きさは長さが10間(18,2m)、幅7間(12,74m)、水口は幅8尺余(2,42m)もあった。この堰をつくるために大量の切石を必要とした。そこで、近くまで船で石を運び、適当な大きさに加工するための石切場が設けられた。現在、江戸川橋のすぐ下流に石切橋という名の橋が残る。その辺りにあったと思われる。
大洗堰の完成により、潮気のない真水が江戸市中に運ばれることとなった。水は、大洗堰から現在の文京区水道町、小日向町を抜け、水戸殿の屋敷内の小石川後楽園に入り、後につくられる神田川放水路の上を懸樋(かけい)の橋で通し、江戸城の一部や神田、小川町一帯の飲み水となった。更に日本橋までも給水した。当時の江戸の町の東部の大半に飲み水を提供することができるようになった。
当時の庶民は喜び「俺たちは公方様のお膝元で水道の水を飲んでいるんだ」と自慢したそうである。ちなみに、神田川放水路上に架けられた懸樋を水道橋と言い今に駅名に残る。

 

 

昭和の初めころの関口の大滝

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川岸でよく粘土がとれた。染物屋が何軒もあって、若い衆が流れにスネまでつかって、真白な布を晒している風景が見られた。今に染物業が残っているのもその名残である。

絵は江戸川小同窓会長 石川省吾氏