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いろはにほへと散りぬるを我が世誰ぞ常ならん有為の奥山今日越えて浅き夢見じ酔ひもせず

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いろはにほへと散りぬるを我が世誰ぞ常ならん有為の奥山今日越えて浅き夢見じ酔ひもせず

いろはにほへと散りぬるを我が世誰ぞ常ならん有為の奥山今日越えて浅き夢見じ酔ひもせず

いろはにほへと散りぬるを我が世誰ぞ常ならん有為の奥山今日越えて浅き夢見じ酔ひもせず

いろはにほへと散りぬるを我が世誰ぞ常ならん有為の奥山今日越えて浅き夢見じ酔ひもせず

いろはにほへと散りぬるを我が世誰ぞ常ならん有為の奥山今日越えて浅き夢見じ酔ひもせず






  • 色は匂へど 散りぬるを
  • 我が世誰ぞ 常ならん
  • 有為の奥山 今日越えて
  • 浅き夢見じ 酔ひもせず

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いろはにほへと散りぬるを我が世誰ぞ常ならん有為の奥山今日越えて浅き夢見じ酔ひもせず


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いろはにほへと散りぬるを我が世誰ぞ常ならん有為の奥山今日越えて浅き夢見じ酔ひもせず

いろはにほへと散りぬるを我が世誰ぞ常ならん有為の奥山今日越えて浅き夢見じ酔ひもせず

いろはにほへと散りぬるを我が世誰ぞ常ならん有為の奥山今日越えて浅き夢見じ酔ひもせず

いろはにほへと散りぬるを我が世誰ぞ常ならん有為の奥山今日越えて浅き夢見じ酔ひもせず

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いろはにほへと散りぬるを我が世誰ぞ常ならん有為の奥山今日越えて浅き夢見じ酔ひもせず

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いろはにほへと散りぬるを我が世誰ぞ常ならん有為の奥山今日越えて浅き夢見じ酔ひもせず

いろはにほへと散りぬるを我が世誰ぞ常ならん有為の奥山今日越えて浅き夢見じ酔ひもせず

いろはにほへと散りぬるを我が世誰ぞ常ならん有為の奥山今日越えて浅き夢見じ酔ひもせず

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いろはにほへと散りぬるを我が世誰ぞ常ならん有為の奥山今日越えて浅き夢見じ酔ひもせず


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いろはにほへと散りぬるを我が世誰ぞ常ならん有為の奥山今日越えて浅き夢見じ酔ひもせず

いろはにほへと散りぬるを我が世誰ぞ常ならん有為の奥山今日越えて浅き夢見じ酔ひもせず

いろはにほへと散りぬるを我が世誰ぞ常ならん有為の奥山今日越えて浅き夢見じ酔ひもせず

いろはにほへと散りぬるを我が世誰ぞ常ならん有為の奥山今日越えて浅き夢見じ酔ひもせず


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いろはにほへと散りぬるを我が世誰ぞ常ならん有為の奥山今日越えて浅き夢見じ酔ひもせず

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ふるさと 四谷

大きな文字に変更して読めます↓

  • S
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  • XL



四谷見付橋

image◆見附とは街道の分岐点など交通の要所に置かれた見張り所のことですが、ここには江戸城の西の守りを固める枡形門(警備のための城門)が設置されていました。当時の橋は土橋で、現在の甲州街道の車道ではなくて四ッ谷駅のすぐ北側の橋に当たります。道はクランク状に曲がっていたわけです。今も、頑丈そうな石垣がその麹町・番町側にあります。この古木は榎だそうです。日本の封建社会から近・現代への動きをじっと見守ってきたのでしょう。

 

◆外堀が作られたのは徳川家光の時代、寛永13年(1636年)で麹町の一部は四谷側に引っ越し、町屋、武家地、寺院が明確に区画されました。元の外堀は市ヶ谷から赤坂までつながっていましたが現在は四ツ屋駅近辺は埋め立てられています。また、ここを通る甲州街道は生活物資を運ぶ重要な位置づけでした。他の街道が日本橋起点であるのと異なり城中に直結する道で、緊急時に甲州へ避難する意味もあったようです。 

 

◆4年生で学ぶ玉川上水は大木戸から地下に入り見附橋までは石樋(石の水道管)で送られ、さらにお堀の水面より高いところを渡り、木樋で3系統に分かれ市中に入ったそうです。

 

◆明治36年(1903)には新宿通り(甲州街道)を路面電車(市電)が走り、にぎわいのある町になりました。市電(その後の都電)の廃止は昭和43年でした。さらに交通量の増大に伴い、新宿通りが現在の幅に拡幅されることになり昭和39年に工事が始まり、四谷4丁目までの区間が62年に完成しています。

 

なお、見附橋は当時の技術の粋を集め、西洋的・近代的な外観の橋として大正2年(1913)に土橋から南側の現在の位置に生まれ変わります。その後、昭和62年(1987)からの工事で現在の姿に改められています。古い橋の一部は多摩ニュータウンに移設され今も名橋の名残りを残しているそうです。

image* 「四谷見附橋」で検索するとたくさんの情報が見られます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

迎賓館

 迎賓館前に若葉東公園があり、ここが港区との区境です。本校の2次避難の場所になっています。

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◆迎賓館は外国の元首や首相などの国賓に対して、宿泊接待を行うための施設です。かつて徳川御三家、紀州徳川家の江戸中屋敷があった場所に明治42年(1909)にネオ・バロック様式の東宮御所(後の赤坂離宮)として建設されました。昭和49年に改修されて、迎賓館として開館し、現在に至っています。  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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服部半蔵(正成)(15411596

 

◆伊賀の忍者の頭領徳川家康の三河以来の家来です。彼が開基となった若葉の西念寺(さいねんじ)に墓があります。歴戦の徳川十六神将の一人で「鬼の半蔵」の異名があります。三方ヶ原の戦いや小田原城攻略で功績をあげました。

 

天正10年(1582)、本能寺の変に際し、堺に滞在していて危機に陥った家康の一行を警護し、険しい伊賀越えに成功し、無事、三河に脱出させました。天正18年(1590)江戸に入府した家康の居城、江戸城西門に近い麹町に居を与えられ、屈強の伊賀同心200人を従え、城の警備に当たりました。今も半蔵門の名が残る所以です。「槍の半蔵」とも言われ、家康から与えられた258㎝の槍が今も西念寺に保存されています。

 

天正7年(1579)、主君であった家康の長男、信康に切腹が命じられます。その介錯役を命じられた半蔵は涙してこれを果たせず「鬼の半蔵の目に涙」と言われました。晩年になって主君を弔い仏門に帰依します。死後、寺院が完成し外堀新設のおりに麹町から現在地に移りました。

 

 

* 謎の多い人なので小説などフィクションにたくさん登場します。忍者ハットリくんの原型です。

* 学校の近くには武家屋敷とともに忍者屋敷がたくさんあったようです。

* 家康が「なぜ長男である信康を自刃させなければならなかったのか?」については諸説ありますので、「松平信康」で検索してみてください。

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須賀神社

image須賀神社は寛永11年(1634赤坂から移設されて以来、『四谷18ヶ町の総鎮守』として町の人々に親しまれてきました。毎年6月初旬に開催される例大祭は「江戸の五大祭り」とされていました。江戸時代は四谷天王社と呼ばれていたことから、子ども園前に通じる坂を「天王坂」と言います。

関東大震災および第二次世界大戦の戦災により消失しましたが、地元の総意で復興され今日に至っています。「三十六歌仙繪」が戦災を免れ、社宝として大切にされています。 

 


 

坂の多い町並み

◆四谷の坂: まず「よつや」という地名の由来ですが、①梅屋、木屋(久保屋)、茶屋、布屋の4軒の茶屋があったため、「四ツ屋(四ツ家)」となったとする説と、②千日谷、茗荷谷、千駄ケ谷、大上谷の四つの谷(または紅葉川渓谷、鮫河谷、渋谷川渓谷、蟹川渓谷)からとったとする説がありますが、はっきりしていません。

山手線内は意外に坂が多いのですが、四谷も例外ではありません。地形的に甲州街道が尾根を形成しているので坂が多いのはうなずけます。

 

 学区域内だけでも四谷駅方向から時計回りに見ていくと、「鉄砲坂」、「観音坂」、「東福院坂(天王坂)」、「円通寺坂」、があり、大木戸方向から逆に東へ「暗闇坂」、「新坂」、「仲坂」、「津之守(つのかみ)坂」、「坂町坂、などがあります。

 

imageちなみに津之守坂の津之守とは尾張徳川一族の美濃高須藩主 松平摂津守(せっつのかみ)のことだそうで、この地に壮大な屋敷があったことがその由来です。昔の地図には周辺に御先手組(弓・鉄砲の足軽)の表示が多く、親藩、伊賀組などとともに江戸の防衛にあたる人々が多く住んでいたことがうかがえます。

 

 

 

 

 


 

新宿区歴史博物館

image◆津之守坂や三栄町公園から少し奥まった住宅街の閑静な環境に新宿区歴史博物館はあります。中学年が社会科の学習で見学する機会が多く、徒歩で楽に行ける距離にこのような博物館があるのは誠にありがたいことです。公益財団法人「新宿未来創造財団」が運営しています。

 

◆常設展示されている内容は縄文期から現代まで多岐にわたりますが、以下のように分類されています。

•1.大地に刻まれた歴史 •2.中世の新宿 •3.江戸のくらしと新宿

•4.近代文学にみる新宿 •5.昭和初期の新宿

 

 

 

 


 

消防博物館

imageimage◆四谷3丁目角にそびえ立つ一際高いビルが「四谷消防署」です。入り口にあるカリヨンの音楽隊が定時になると可愛らしく演奏しています。こちらに「消防博物館」が併設されており、無料で見学が可能です。江戸時代の火消しの様子が精巧なミニテュアで見られます。毎年、4年生が見学に行っています。マスコットはファイアー君です。

博物館の内容は http://www.tfd.metro.tokyo.jp/ts/museum.html を参照して下さい。

 

 

 

 

 


 

 

四谷ひろば

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◆平成20年、旧四谷第四小学校跡地にできた地域住民の「ふれあいと交流の場」です。東京おもちゃ美術館やCCAAアートプラザのNPO2団体が建物の一部を利用して設置されています。施設開放がなされ、子どもたちもたくさん参加する夏の盆踊り、四谷だいすき祭り等々、地域の催しがたびたび行われています。

 

http://www.yotsuya-hiroba.jp/index1.html

 

 


 

四谷大木戸

 

imageimage◆学区域の西端、「四谷4丁目交差点付近」にあった昔の地名で「おおきど」と読みます。

◆江戸時代には江戸の市街地の出入口にあたる各所に設けられ、取り締まりの門の役割を果たした大木戸が地名となりました。甲州街道には元和2年(1616)、四谷大木戸が設置され通行人や荷物を取り締まりました。現在の四谷区民センターの脇に四谷大木戸門跡の碑が立っています。

 

地面には石畳が敷かれ、木戸の両側には石垣が設けられていました。当初は夜になると木戸を閉めていましたが、寛永13年(1636)四谷見附の完成により、寛政4年(1792)大木戸は廃止され、道の両側の石垣も明治9年(1876)に撤去されました。また、大木戸の西には元禄12年(1699年)に甲州街道最初の宿場となる内藤新宿が開設されます。

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◆大木戸近くには承応2年(1653年)に完成した玉川上水の四谷水番所が設けられ、水質管理を徹底していました。四谷見附の欄でふれたように、ここからは地下の石樋(水道管)を使って四谷見附へ、さらに木樋で江戸市中へ配水していました。

 

 

 

 

 

 

 


 

玉川上水と新宿御苑

◆徳川家康は天正18年(1590)、江戸に入府しますが、飲料水の確保に苦心します。当時の江戸城は海が近く、今の銀座や日比谷のあたりは海でした。井戸を掘っても塩水が混じってしまいます。そこで小石川上水、溜池上水、さらに神田上水を設けましたが、江戸の町の発展による急激な人口増加に追いつきませんでした。

 

◆幕府は承応2年(1653)、家綱の時代に玉川庄右衛門、清右衛門の兄弟に工事を工事費6000両で請負わせました。羽村の堰から内藤新宿の「水番所」までは総延長43㎞、高低差わずかに100m、武蔵野台地の尾根を8ヶ月という突貫工事で掘り進む一大プロジェクトでした。火山灰の地質(関東ローム層)が水を吸い込んでしまい大変な難工事です。最初、日野・府中から始めた工事は失敗し、二度目の福生も失敗します。兄弟は途中で財政難に陥りますが、家を売り、さらに川越藩家臣、安松金右衛門の助けを得て同年秋に完成し、翌承応3年(1654)通水に成功します。(異説もあるようです。)

 

現在なお一部は活用されており、多摩川水系が東京の水の1/3であり、玉川兄弟の功績は偉大です。

 

image◆なお、玉川上水は新宿御苑の北側を流れていましたが、ホタルが舞う清流であったようです。今では暗渠化されていますが、往時を思わせる「玉川上水を偲ぶ流れ 分水散歩道」が区の整備によって安全なミニチュア版として完成しました。

(*左写真)

 

◆新宿御苑は江戸時代に高遠藩主内藤家の屋敷があった地に明治39年にできた皇室の庭園でした。戦後、公園となり、環境省が管理しています。本校から徒歩1㎞。 

 

 * 4年生が玉川上水について社会科で詳しく学びます。以下が参考になります。

 

http://www.waterworks.metro.tokyo.jp/water/pp/rekisi/s_history_03.html

 

* 工事費は現在の通貨に換算して1両30万円として計算してみてください

 

 


 

 

 

* 以下の写真はクリックすると拡大します。

下段右の写真は本校にある木樋の一部。構造がよく分かります。また上段の写真は四谷センターにある「玉川上水」と「水番所跡」の表示です。

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