新宿区立四谷小学校 〒160-0004 住所 東京都新宿区四谷2丁目6番地 電話 03-5369-3776
「四谷」の町は新宿区のどのあたりにありますか?
東のはずれにあります。えきより東は千代田区(ちよだく)で、南は港区(みなとく)です。、
「四谷」の町にはどんな「たてもの」が多(おお)いですか?
新宿通りにそって、お店がはいったビルが多いです。西にすすむとデパートなどがある新宿の東口の商店がいになります。わきみちにはいると、小さなレストランなどが多く、ふつうのじゅうたくやマンションもたいへん多いです。
会社やお店、事務所ではたらく人などたくさんの人が通ります。車の交通量もとても多いです。
南がわにはお寺がたくさんあります。(写真の道ろが新宿通りで、甲州街道とも言います。)
「四ツ谷」えきにはどんな線路「せんろ」がとおっていますか?
JRの中央線、総武線。そして地下鉄の丸ノ内線、有楽町線がとおっています。
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学区域(がっくいき)のまん中を通る「新宿通り」は甲州(こうしゅう)かいどうと同じ(おなじ)ですか?
同じですが、大木戸で新宿えき方向(ほうこう)と御苑(ぎょえん)トンネルに分かれます。甲州かいどうは御苑トンネルをぬけ山梨県(やまなしけん)甲府(こうふ)市までとおっています。国道(こくどう)20号線(ごうせん)とも言います。新宿駅の方向へ行く道はやがて青梅(おうめ)かいどうにつながります。
まん中の高いたてものは四谷地域(ちいき)センターです。四谷図書館もはいっています。
学校ができたころはどんな時代(じだい)だったのですか?
四谷小学校のもとは、いまから140年も前(まえ)の明治(めいじ)8年8月に四谷舟町(ふなまち)の全勝寺(ぜんしょうじ)に「四ツ谷学校」として生まれました。正しい名前(なまえ)は東京府第一大学区第三中学区第十三番小学校でした。先生が3人、子どもたちは130人でした。その後、教育令という法律によって公立四谷小学校になります。明治22年にいまの土地(とち)にうつりました。
その後、第一尋常高等小学校になり、明治37年、40年に第三小学校、第四小学校が兄弟校のように開校しました。児童数が多かったときはいずれも1000人もいました。
(* 平成にかけて児童が減っていき、平成19年に統合して新しい学校になりました。)
(* 「学校のあゆみ」のページも見て下さい。)
もっと大昔(おおむかし)にも人はすんでいたのですか?
むかし、5千年前の縄文時代(じょうもんじだい)には神田川(かんだがわ)や妙抄寺川(みょうしょうじがわ)にそったあたりに小さな村を作って人が住んでいました。落合の台地、今の目白大学近くに遺跡(いせき)があります。動物(どうぶつ)の肉(にく)や木の実などを食べていました。
どうして「四谷」という名がついたのですか?
むかし、梅屋、木屋(久保屋)、茶屋、布屋の4けんの茶屋(ちゃや)があったので、「四ツ屋」というようになったと言われています。ほかに千日谷、茗荷谷、千駄ケ谷、大上谷の四つの谷があったからという話もあり、はっきりしていません。
人がたくさんすむようになったのは、いつごろですか?
今からやく400年前、徳川家康(とくがわいえやす)が江戸という町をつくってからです。100万人が住んでいたそうです。
どうしてお堀(ほり)ができたのですか。「四谷見附(よつやみつけ)」はどんなところですか?
徳川家康(とくがわいえやす)が、江戸に城(しろ)を作り、まわりにお堀をほって敵(てき)から守るようにしたのです。見附は橋をわたったところに作られる守りをかためた門です。
忍者(にんじゃ)がすんでいたというのは本当ですか?忍者ハットリくんて本当にいたんですか?
町人(ちょうにん)が多い町でしたが、江戸城(えどじょう)を守る伊賀(いが)の忍者もたくさん住んでいました。
服部半蔵(はっとりはんぞう)という、家康を助けたとても強い忍者の頭領(とうりょう)が有名(ゆうめい)なので、ハットリくんのマンガのモデルになったようです。200人もの手下がいて、いざというときのためにそなえていたそうです。
半蔵のお墓が西念寺(さいねんじ)にあります。家康からおくられた「やり」がのこされています。
「大木戸(おおきど)」ってなんですか?
江戸時代に作られ、今の四谷地域(ちいき)センター手前(てまえ)の甲州街道にあった大きな門です。江戸時代の初めは夜になるとしめられたそうです。江戸に出入りする人々を見はっていました。(* 四谷地域センターの写真は上にあります。)
* 大江戸データベース 「四ッ谷大木戸」
http://www.library.metro.tokyo.jp/portals/0/edo/tokyo_library/database/index.html?page=17&ky=&ca=
「玉川上水(たまがわじょうすい)」ってなんですか?
江戸時代に江戸の町の水が不足(ふそく)して、徳川幕府(とくがわばくふ)の命令(めいれい)をうけた玉川兄弟がたいへんな努力(どりょく)をかさね、多くの人の手で作られました。
4年生でくわしく学習します。
「津之守坂(つのかみざか)」の名前はどうしてついたのですか?
江戸時代に松平摂津之守(まつだいらせっつのかみ)という今の岐阜県(ぎふけん)のお殿様(とのさま)のおやしきがあったからです。むちの池(カッパ池)はその庭(にわ)にあったわき水をためた池です。徳川家康がタカ狩りにきたとき、ここで馬のむちをあらったそうです。
「鉄砲坂(てっぽうざか)」という名前はどうしてついたのですか?
江戸時代に、鉄砲を作るしょくにんがたくさん住んでいたのでつけられた名です。
「新宿御苑(しんじゅくぎょえん)」はどうしてできたのですか?
江戸時代の高遠藩(たかとおはん)のお殿様(とのさま)内藤氏(ないとうし)のやしきと庭があった場所を公園にしたものです。
「都電(とでん)」が走っていたことがあると聞きましたが、いつごろですか?
大正時代(たいしょうじだい)から昭和47年(40年前)まで走っていました。新宿通り、外堀通り、信濃町方向などたくさん通っていました。くわしくは近くの新宿歴史博物館(れきしはくぶつかん)で学べます。、
戦争(せんそう)のころの四谷の人々はどうだったのですか?
太平洋戦争(たいへいようせんそう)のために、昭和(しょうわ)20年4月から空襲(くうしゅう)をうけ、四谷全体(ぜんたい)が焼(や)けました。何もなくなって四ッ谷駅から新宿のデパートが見えたそうです。子どもたちは山梨県に疎開(そかい)しました。
「迎賓館(げいひんかん)」 はどんなところですか?
江戸時代の紀州徳川家(きしゅうとくがわけ)のやしきがあった場所を太平洋戦争の後に外国の首相、大統領(だいとうりょう)などお客がとまれるようにしたものです。迎賓館は港区にあり、門の前の若葉公園は新宿区です。四谷小の避難場所になっています。
「消防博物館(しょうぼうはくぶつかん)」はどんなところですか?
四谷消防署の中にあります。昔の消防車や消防署のはたらきがわかるようなものがおいてあります。
「歴史博物館(れきしはくぶつかん)」はどんなところですか?
津 之上坂(つのかみざか)や三栄(さんえい)通りから少し入ったところにあり、学校からも近いです。新宿区の5千年以上も前の昔から最近までのうつりかわり がわかるようになっています。昔つかわれていた物や都電(とでん)の一部など興味(きょうみ)がわく物がたくさんおいてあります。ぜひ、行ってみましょう。