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津久戸小のあゆみ


津久戸の歴史(その1)

 

2014年5月14日(水)は開校110周年記念集会が行われました。その際の私の話です。(趣意)
校舎に入る時に大きな学校の表札があります。「校学小戸久津」と大きな字で右から左に書いてあります。主事さんが何ヶ月もかけて磨いてくれました。裏書きを見ますと「明治45年7月21日 為本校増築記念 寄付 工事監査委員」続けて監査委員のお名前があります。開校が明治37年ですのですぐに教室を増設したのがわかります。「津久戸」と銘打たれた80周年記念の立派な記念誌があります。そこには卒業生の思い出が寄せられています。明治38年卒業の実森さん・川崎さんが開校のころを語っています。大正10年卒業の元林さんが恩師の武川先生のことを語っています。この方は後年、最高裁判所判事をなさっています。また、戦争のころのことを語っている方もいらっしゃいます。開校は明治37年4月10日なのですが、記念日が5月14日なのは、なぜだかわかりますか。それは昭和26年5月14日に天皇皇后両陛下が本校少年赤十字団の活動のご視察のため行幸啓なさったからです。それ以来記念日が5月14日になったのです。このように津久戸小学校は歴史と伝統ある素晴らしい学校です。皆さんの先輩の卒業生も立派な方がたくさんいらっしゃいます。2015年1月23日(金)には理数フロンティア公開講座に黒岩常祥先生をお招きします。日本学士院会員・東京大学名誉教授でみなさんの先輩です。テーマは「宇宙誕生や細胞」の話を予定しています。2014年10月18日(土)は記念式典があります。それまでに津久戸の歴史を調べ立派な津久戸の子どもになってほしいのです。
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津久戸の歴史(その2)
大正のころ

 

学校だより2014年4月号でご紹介した大正3年の朝日一郎さんの夏休みの日記から、さらに続けます。

 ・朝、お祭りなので早く起きた。少したって飯塚君が来たので若宮八幡へ行った。昼から市谷八幡へ行った。帰ってきてから小豆氷を食べた。夜の6時ごろまた飯塚君と市谷八幡へ行った。
 ・とても暑かったので関口の大瀧まで遊びにいった。ずうっと泳いだ。水が冷たくて気持ちがよかった。泳ぎ疲れたので江戸川公園の木に登ったり走りまわったりして楽しかった。
 ・朝、汽車の汽笛一声と共に飛び起きた。イチジクの木の下で深呼吸した。昼からお使いに行って、煙草をよその家へ持って行った。そしてまた別な家へ勘定を取りに行った。帰ってきてからあまりに暑かったので橋の上へ遊びに行った。サイダーを飲んだ。その時はうまかった。

そのころの子どもの様子が目に浮かびます。一郎君の在籍していたころの津久戸小学校の児童数は1215名もいます。23学級ありました。大正11年の全校朝会の写真が残されています。全員が羽織や袴すがたで校庭を埋め尽くすほどの人数の多さです。
 日誌には課題もあり、
 ・公倍数とは如何 
 ・最小公倍数とは如何 
 ・公約数とは如何
という、算数の課題もありますが、

 「我等臣民は皇大神宮についてどのようにこころがけてをらねばなりませんか」

という時代を映したものもあります。
 
八十周年記念誌「津久戸」からも紹介します。
大正11年入学の川崎さんの手記です。

・校長先生は初代の光野校長で、音楽の先生に花嫁人形・出船など作曲された、有名な杉山長谷夫先生がおりました。学校は木造2階建てで、校庭は土のままで周囲に桜の木があり、春は桜が満開で美しい風景でした。朝礼や始業・終業・お休み時間を知らせるのに用務員さん(そのころは小使いさん)のおじさんが鐘を手で振ってカランカランと鳴らして知らせました。学校の裏側(今の厚生年金側)にお庭と校長先生のお住まいがあり、いろいろな小鳥やウサギ、池に鯉がたくさん飼われて、美しい静かなお庭でした。
<初代光野豊吉校長は明治37年4月に着任し、大正12年12月に退職なさっています。>
2代校長の小倉先生は、ボーイスカウト運動に熱心で、私も4年から入り種々の訓練やキャンプなどに行きました。
(後略)

 津久戸小には立派な歴史館があります。75周年の時に作られました。そこには、縦50㎝横40㎝の大判の写真アルバムがあります。PTAのご尽力であるのです。明治のころから現在まで30冊ぐらい揃っています。明治編には、創立のころの校舎や卒業式の写真があります。大正編も1冊あります。それには、大正3年当時の職員一同、卒業式、大正7年の遠足(行先は鶴岡八幡宮。子どもたちは羽織や袴ですが、引率の先生は、男性は背広と山高帽子で女性は和服です。)大正9年の遠足(鎌倉の大仏と写っている)などの貴重な写真が残っています。そのころの地域の様子はと言いますと・・・
 明治から大正にかけて神楽坂の縁日のにぎやかさかは格別でした。今の新宿や渋谷以上のものでした。
東京で縁日を開くようになったのは毘沙門天が始まりでした。
 大正12年の関東大震災。このあたりは下町に比べれば被害も少なく、神楽坂は焼け出された人々の流入や買い出しの人々でにぎわいを増しました。大正・昭和にかけての山の手で随一の繁華街になりました。三越、高島屋、白木屋のデパートが通りに店を出しました。また、演芸場が4館もありました。震災復興を機に東京市の技師が坂道の多いサンフランシスコに視察に行き木煉瓦で舗装されているのを見て、神楽坂でとり入れることになりました。学校も、昭和8年、モデル建築といわれる白亜の立派で頑丈な鉄筋コンクリート作り3階建ての新校舎が完成したのでした。その完成を祝って日本画壇の巨匠河合玉堂が富士山を描いた「富岳」を寄贈しました。(現在は新宿歴史博物館が所蔵)
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津久戸の歴史(その3)
戦争のあったころ

 

長い夏休みが終わり、校舎に子どもの声がかえってきました。前号では、大正のころの「津久戸」でした。引き続き、戦争のころの「津久戸」をお話します。つくど歴史館の「昭和編 写真アルバム4」は、東京都牛込区津久戸国民学校の疎開児童の記録から始まります。前書きにはこう記してあります。

「記録写真の見方について
まず、第一に必ず説明を読み、光明寺(1)、宝蔵寺(2)、天理教(3)、城宝寺(4)<この4つの寮に3年生以上の児童が集団疎開したのです>の道順に写した目的を味わいつつ、照らし合わせて初めて学童の一日の日課が分かるのであるから、津久戸学校全生徒の行動に目を通し、次にその中から我が子や近所の元気な姿を見出して下さらば作者の満足といたす次第です。」(字体は旧漢字です。)

と、あります。作者は星野孝次さん。肩書は中等教科書製本株式会社 工場長となっています。この当時のお住まいが、学区域なので本校の保護者だった方でしょうか?写真は、8月15日の疎開出発前の筑土神社参拝、16日に出発前注意打ち合わせ、17日出発のところから、始まっています。飯田橋へ向かう児童の群れ、母校を後に親きょうだいもせめて駅までとついていく姿。‘男児部隊を先頭に元気で駅へ‘のキャプションもあります。359名が向かったのでした。「昭和編 写真アルバム8」は、疎開先での子どもたちの生活の様子が残されています。青竹のぼり、川での洗濯、朝会、就寝などの様子です。男女に分かれての生活です。そして、時は流れて、疎開引きあげの写真。学校付近の家は跡形もありません。ここで、タウン誌『ここは牛込、神楽坂』第4号(この号は90周年おめでとう、津久戸小学校の特集が掲載されています。)に、当時の教員の亀田はま先生が寄稿されています。
「私は、戦争が烈しくなってきた昭和19年に赴任し、47年に退職いたしました。赴任した年の8月に学童疎開となり、栃木県の鹿沼を中心のお寺や天理教の教会にお世話になりました。疎開の苦労は言うまでもありませんが、子どもたちと共に私も貴重な経験をいたしました。20年の8月15日には、田の草取りを頼まれて、6年生の子どもたちと、泥田の中で汗を流していました。お昼にラジオの玉音放送で終戦を知り子どもたちと一緒に炎天下4キロくらいの道を泣きながら帰って来たことが忘れられません。翌年の2月に疎開が終って飯田橋の駅に着いたとき、焼け野原の中に学校がしっかりと立っているのを見たときは、本当に感激いたしました。・・(以下略)」


学校は、決して無傷だったわけではありません。昭和20年の4月14日の未明に校舎に焼夷弾が落ち特別教室3つ・3階廊下・2つの普通教室が焼失しています。学区域内も船河原、神楽坂一丁目、新小川町大曲付近が焼失しています。しかし堂々とした白亜の校舎そのものは、空襲にも負けずに立っていたのでした。子どもたちの胸にもきっと希望のシンボルとして輝いたことでしょう。子どもたちを守り抜いた教職員・保護者・地域の方の御努力・御苦労には敬服するばかりです。このことは、戦後の新校歌の歌詞の中に「白い校舎よ そびえたつ」と歌い継がれています。
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津久戸の歴史(その4)
いいぎりによせて「校樹」と「校訓」
 
記念式典・祝賀会がいよいよ2014年10月の18日(土)に迫ってきました。今日は、校樹と校訓の伝統を引き継ぐべく、書かせていただきます。津久戸小学校の校樹(学校の代表の木)は「いいぎり」です。「総合的な学習の時間」やPTAの広報誌にその名があります。
 平成5年の当時の子どもたちが俳句に詠んでいます。

 

いいぎりは葉も実もない寂しさよ
いいぎりのてっぺん震えて冬の空
小鳥さんおいしいのかないいぎりの実は

 

同じ頃の学校便りに第十四代校長緒方良子先生が


枯れ枝に春立つ雨の玉光る

 

と詠んでおられます。しかし、同時に実の房が小さいことと一部の枝の葉が黄色いことを憂えておられます。心配は現実のものになり平成8年には枯れてしまいました。その数年前のこと、第十五代小笠原功校長先生は、外壁工事のため根元を掘り起こすことになり、極度に狭いコンクリートの囲いの中でいいぎりが今後充分に育つには難しいと考えて実生(みしょう)を育てていました。やがて、実生から育ててきた苗木が1mを超えるほどに成長し、枯れてしまったいいぎりに代わり、その苗木を植えました。ちょうどこの年(平成8年)に五年生の担任として赴任した私は小笠原校長先生が主事と一緒になって、大事そうに植樹していたのを覚えています。しかしこの時に新たな問題が出てきました。いいぎりは雌雄異株で、見事な赤い花をつけるのは雌の木だけだと言うことです。「どなたか、雌の木と雄の木を見分ける方法を教えてください。」とやはり学校便りに書いておられます。時は流れて、現在、いいぎりが赤い実をつけたのをみたことがないのです。やはり、今の木は雄なのでしょうか。それとも、雌だけれども花粉が飛んでこないから花をつけないのでしょうか。樹木そのものは立派に成長し灰色の太い幹です。葉っぱもハート型の大ぶりの葉をいっぱい茂らせています。津久戸小学校のシンボルであるいいぎりの木。今になって、歴代の校長先生がいいぎりに寄せた思いをひしひしと感じます。そして、もう一つの伝統、本校に校訓があるのが最近わかりました。「誠実力行」です。昭和13年1月13日に制定されています。誠実なることに力を尽くしていこうということです。この由来はわかりません。いつ、いいぎりが学校のシンボルの木になったのか、校訓の由来がどうなのか定かではないのですが、当時の思いを掘り起こし、大事に次の世代につないでいかなければなりません。2014年10月18日が津久戸小学校の伝統を引き継ぐ決意の日になることを願っています。そして、また、いいぎりの木に実がなることを願っています。どうしたらいいものか、現在思案中です。

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津久戸の歴史(その5)110周年記念式典
~未来へはばたけバトンをつないで~

 

2014年10月18日(土)に110周年の記念式典が盛大に行われました。教育委員会や区議会議員などの来賓の皆様を始め地域・保護者・同窓会の方々のご協力で本当に良い会になりました。

 来賓祝辞で、羽原教育委員長先生から著名な卒業生の名前を挙げながら、連綿と続く津久戸の伝統を取り上げて下さいました。スローガンのごとく ~未来へはばたけバトンをつないで~ へのエールです。小川PTA会長さんは、ノーベル平和賞のマララ・ユスフザイさんのスピーチに言及しつつ「人間にとって教育とは最大の希望です。そしてその学び舎は、これからの未来も変わらず、子どもたちの希望の火をともし続けるかけがえのない場所であり続けることを確信しております。」と言われました。そして「津久戸の歴史」を映像で紹介し、次は子どもたち5・6年生による「喜びの言葉」です。その中の歌「ふるさと」「アンリミテッド」の歌声が素晴らしかったのです。歌詞の中にある「加速する歴史のバトン いま僕らの腕にある 」の通りでした。当日は、お元気な歴代の校長先生、第14代緒方先生、15代小笠原先生、16代荒木先生、17代小滝先生、18代堀竹先生が駆けつけて下さいました。午後のPTA主催の祝賀会には、地域の方々・同窓生・旧職員の方々など300名近くも出席くださいました。改めてこの津久戸の地域の、子ども・保護者・PTA・同窓会の強いつながりと学校愛を感じざるをえません。関わりのある皆さんの力でできました。教職員は式典・記念誌・歴史館と別れて準備をしてきました。また周年実行委員会・周年係・同窓会の方々の全面的な協力を頂きました。広報委員会による記念の特別特集冊子もできます。改めてここでご協力いただいた皆様に感謝申し上げます。私は式辞の中で、昭和28年に本校にいらしたエレノア・ルーズベルト夫人の言葉を紹介しました。その一節はこうです。「私が深く確信すること。それは私たちの歴史は私たちが創っているということです。歴史がどのような方向で進むかは、私たちの選択によって決まります。その選択は、人々のもつ思想、信念、価値観、そして夢から生まれてくるのです。」共々に新しい歴史を創ってまいりましょう。

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津久戸の歴史(その6)
研究の系譜

 

過日の学芸会にはたくさんの方にお見え頂き誠にありがとうございました。子どもたちは実に多くの学びをしたと思います。心のこもった素晴らしい演技を見て胸があつくなりました。話は、津久戸の歴史になります。私は平成8年から13年まで6年間教員として在籍しましたがその間、算数:テーマ「進んで考え表現する子どもの育成」と国語:テーマ「豊かな人間関係をつくる子どもの育成」で新宿区教育委員会研究発表校として研究をしました。校長としてもどった年の24年に理科:「児童一人一人の科学的思考力・表現力をはぐくむ指導」で発表しました。その間も本校は学校図書館活用:「自ら学び、よりよく問題解決しようとする児童の育成」で発表しています。学校は「授業が楽しくてためになることが一番」です。教員が授業力を磨くことが一番で、常に「授業改善」を言っています。私自身が研究発表を通して、算数や国語の授業法や子どもの実態のつかみ方など、校長先生や先輩の先生方、そして講師の先生から学んできたので、校内の研究や研修の活動を大事にしています。日常の授業を覗くと先生方が常に工夫して取り組んでいます。津久戸の研究の歴史を見てみました。昭和27年3月発行の『津久戸の教育第2号』には昭和25年度の研究題目を①能率的学校経営②保健教育③カリキュラムの吟味の3つをあげ東京都の実験学校の指定を受けた。とあります。昭和28年度は各教科に別れ、国語科「客観テスト作成の方法」社会科「地理、歴史からみた東京」「牛込神楽坂」家庭科「本校の家庭科の実態調査とカリキュラム」などとあります。昭和33年には、『全体構想に立つカリキュラムの構成』という電話帳のような分厚いカリキュラムができています。そして昭和36年道徳指導研究発表会(区教委指定)、学習能力の基礎育成を期し国語科指導研究発表会(都教委指定)と発表が続きます。昭和22年に出された最初の学習指導要領は試案とされ、新しい教科書が作成されてきます。昭和33年には道徳教育が教育課程に位置付けられます。この間の日本の教育はまさに激動の時代ですが、津久戸小学校はまさに日本の教育のトップランナーとして走っていたことがわかります。研究のレベルが非常に高いのです。内容も今と比べても全く新しいのです。改めて驚きました。現在のわれわれもこの伝統を引き継ぐべくさらに努力していかなければと身の引き締まる思いです。
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津久戸の歴史(その7)
つくどな人々

 

神楽坂の風土に象徴されますように、高台の武家屋敷のあったところは山の手の雰囲気をもち、坂下は神田川を伝わってきた下町の気さくさが混在しています。洗練されながらも情に厚い「つくどな」人々が出来上がりました。26年3月号「花を活ける心」でも紹介しましたが、15年も続く「生け花」ボランティアは卒業生の保護者の方が続けてくださっています。剣道教室は昭和41年に発足しました。牛込警察に勤務されていた古川健一先生に当時のPTA会長大野隆義さんと第7代校長神能貞嘉先生の強い要請があり、できたのです。48年の歳月を重ねています。今ではその卒業生が後を継いでいます。野球はさらに歴史が古く、昭和5年のころの様子を、昭和8年卒業の沖武志さんが手記を残しています。・・当時牛込区には12校あって毎年雌雄を決する大会が恒例でした。5年生になってからは、対抗試合も活発に行われ、特に山吹、江戸川との交流が多く、放課後は校庭、休日は戸山ケ原練兵場で弁当携行の特訓でした。・・・とあります。津久戸少年野球教室はいつできたのかはっきりしないのですが、もう何十年もの歴史があります。毎年の牛込少年野球大会では活躍しています。同窓会長の臼井健之さんが長く代表を務めておられます。著名な卒業生(同窓生)もたくさんおられます。

大佛次郎(小説家)、金子光晴(詩人)、新関八州太郎(初代三井物産会長)、本林譲(元最高裁判所判事)、金子幸彦(一橋大学名誉教授・ロシア文学者)、川村克己(立教大学名誉教授・仏文学者)、高梨豊(写真家)、阿部謹也(元一橋大学学長・中世史研究家)、二代目中村吉之丞(歌舞伎役者)、西條康彦(俳優)、十一世鶴賀流家元鶴賀若狭掾(人間国宝)、黒岩常祥(日本学士院会員・東京大学名誉教授)、三浦友和(俳優)、竹田真砂子(小説家)、井上寿一(学習院大学学長・政治学者)等の方々です。<敬称略・順不同>

このように有名・無名に関わらず、「つくどな」人々により「津久戸小学校」の伝統が続いています。これからもこのよき伝統を引き継いでいきたいと思います。(注):「つくど」という単語を形容詞的に使いますと「つくどな」となります。「つくどな」という単語は「洗練されながらも情に厚い」という意味で使っています。もちろん辞書にはありません。

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津久戸の歴史(その8)

 

黒岩常祥(くろいわ つねよし)先生の講演がありました。先生は、日本学士院会員、文化功労者です。そして東京大学名誉教授でもあられます。生命誕生や植物から動物に至る進化の歴史を研究しておられます。先生の研究の成果はすばらしく科学雑誌「ネイチャー」の表紙を何回も飾っています。「すべての生き物は細胞からできている」が講演のテーマです。子どもには難しいところもありましたが、先生の研究にかける姿勢に感動し、真理の発見物語にはわくわくどきどきしました。「好奇心」「好きなこと」が大事だとつくづく思います。「勉強はできなかった」 「よく、けんかもした」その、やんちゃぶりから、のちに大成する気質が「つくど」の風土の中で育まれたのだと思いました。とにかく自然を

相手に遊んでいます。

 

金庫の秘密

先生は本校の卒業生。卒業証書台帳が残っていました。表紙は古びていますが先生のお名前があり、番号は三千九百十号です。職員室の金庫の中にあったのです。その金庫は宝の山です。津久戸の古い歴史がつまっています。
 ・学校沿革史(明治37年)・・・開校のころから歴史が残っています。昭和26年には天皇・皇后両陛下の行幸啓の記録があります。
 ・卒業児童訓練簿(昭和元年)・・・学業成績や保護者の職業も残っています。土地柄か、商売の方が多いです。
 ・給食簿・・・戦後すぐの給食の記録です。当時の献立は、肉野菜ごった煮、鮭汁などです。
 ・夏季休業日誌・・・朝日一郎さんの日誌(大正3年)明治天皇、教育勅語という文字が見えます。
 ・教職員履歴書綴り
など、貴重なものが多くあります。この金庫は開校当時からのものです。
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津久戸の歴史(その9)
伝統・そして未来への希望

 

2月1日(日)伝統文化親子教室発表会がありました。津久戸小の子どもたちが名作「蜘蛛の糸」を新内節で語りました。指導は人間国宝の鶴賀若狭掾(つるがわかさのじょう)さんです。場所は赤城神社ホールです。地域の方や保護者の方等多くの方がお見えになりました。鶴賀若狭掾さんは、本校の卒業生であり保護者でもあります。
鶴賀さんはパンフレットにて語ります。


・・・日本ほど自国の芸能、とりわけ伝統音楽を大事に扱わない国は世界に例を見ません。情けない悲しいことではありませんか。そして恥ずかしいことなのです。私は世界40か国以上でかけて演奏をしてきましたが、いずれの国でも日本の歴史、伝統に対して尊敬と憧憬の念を持っているのです。我が国はどうして伝統音楽を軽視するようになったのでしょうか?・・・


最新の学習指導要領では国語科において[言語文化と国語の特質に関する事項]が設けられ「我が国の言語文化に親しむ態度を育てたり、国語の役割や特質についての理解を深めたり豊かな言語感覚を養う。古典の指導については、我が国の言語文化を享受し継承・発展させるため生涯にわたって古典に親しむ態度を育成する指導を重視する。」とあります。津久戸の子どもたちはこのような機会に恵まれ大変幸せです。立派な先輩がいるわけですからしっかりとこの日本文化の伝統を受け継いでいかなければなりません。
 そしてもうひとつは明るい未来への展望です。
今の子どもたちを待ち受けている未来は決して明るいことだけではないでしょう。伝統を受け継ぎそれを発展させ、今までになかったものを産み出す力がないと生きていくのが難しい時代になるに違いありません。本校のシンボル「いいぎり」のオスとメスの木を新しく植樹しました。明るい希望の赤い実をやがてつけてくれるにちがいありません。

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